※本文は2025年1月11日HOWSにおいて行われた朝鮮大学校教育学部長 金陽昇(キム・ヤンスン)教授の講演内容に、必要な加筆修正を加え書き起こしたものです。
まえがき
ご存じの方も多いと思いますが、「4.24」というのは阪神教育闘争事件ともいわれる1948年に起きた朝鮮人学校弾圧について、4月24日を象徴的にとらえ、それを「サイサ」(424の朝鮮語読み)と呼ぶことで記憶にとどめていることから定着した、闘争全般を総称した呼び名みたいなものです。
今でもとくに朝鮮学校にかかわる朝鮮同胞たちの間では、「サイサ」と言ってそれが分からない人がいないほど、在日朝鮮人にとっては重要な歴史的事件となっております。
この歴史的事件、植民地統治から連続される日本人の「差別意識」や日本政府の「同化政策」と結び付けられて、日本政府(もしくは日本社会)と「日本に残留した」朝鮮人との間で起きた事件として理解されているふしがありますが、ことはそう単純ではありません。
今日のお話の題名にも記しましたが、事件が起きたのは米占領期であり、日本はまだ主権を確立できていません。そのような中、事件を日本政府の「政策」と「日本に残留した朝鮮人」との間で起きた問題としてとらえることは、今日もなお続く在日朝鮮人差別・弾圧の本質を理解するうえで、少なくない誤解を生むことになると思います。
米占領期に起きた朝鮮人民族教育弾圧とは何だったのか。4.24と朝鮮人学校閉鎖の過程を紐解きながら一緒に考えたていきたいと思います。
4.24教育闘争が起こる背景
一連の事態を理解するうえでまず重要な背景となるのは、朝鮮人が解放直後から帰国の準備として、日本で生まれ育った子供たちに朝鮮語を習得させることを重要な課題とし、各地に「国語教習所」を設置したという事実であります。
そのような中、GHQ/SCAPは1946年11月「在日朝鮮人の帰国は1946年12月15日を期限として完了する」と通知し、12月20日には「送還を拒否して日本に在留することを選択す朝鮮人は以後一切の日本の法令に服することを充分承知して右の選択を行うものである。」(朝鮮人送還計画に関する昭和二十一年十一月二十日附司令部発表)と決定しました。
米軍司令部は占領直後、日本にいる朝鮮人については解放民族ではあるが必要な場合敵国民=日本国民として扱うと宣言していましたが(初期基本指令)、一年余りで「送還計画」を打ち切り、残留朝鮮人について日本国民扱いすることを一方的に決定したと言えます。
これは講和条約批准の日まで朝鮮の主権は法律上日本に在り、よって朝鮮人の国籍は日本国籍であるという日本政府の立場と一致しております。
1947年5月2日天皇最後の勅令として外国人登録令が公布・施行され、日本国籍が維持されたまま外国人となり、外国人でありながら日本の法律によって管理される対象となることで、朝鮮―日本間の移動が事実上封鎖されます。朝鮮人の日本残留は否応なく固まっていくこととなります。
ちなみにですが、米軍司令部には敵国民=日本国民扱いされ、その結果日本政府の意図通り日本国籍が維持されているにも関わらず、日本国憲法施行前日に外国人登録令が公布・施行されることで「国民の権利」からは排除されるという異常な不条理について、現在の視点から批判的な指摘をする意見も散見されますが、当時の朝鮮人やその権利擁護を担っていた朝鮮人団体が、「国民の権利」からの除外を問題視したわけではないことに留意していただきたい。
当時の朝鮮人はあくまでも日本国民扱いに対して異議を唱えており、連合国民その他外国人との間での差別的扱いを問題視しています。連合国総司令部である米軍に敵国民扱いされるいわれはないわけであります。
このような状況下で、朝鮮人の教育事業は長期的なものになると認識されるようになり、体系化されていきました。
「国語教習所」は朝鮮人学校へと改編され、1947年には500校以上、学生約6万名の学校事業として発展していきます。
このような発展こそ、一連の事態が起こる背景となっていくわけです。
4.24教育闘争の過程
1947年10月13日GHQ/SCAP(マッカーサー)は日本政府に対し在日朝鮮人が日本の教育基本法、学校教育法に服従するよう指令を出します。
それを受け文部省は1948年1月24日「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出します。[1]
通達の内容は要旨次のようなものでした。
- 在日朝鮮人は日本の法令に服しなければならない。
- 学齢児童は日本人同様に公立・私立学校に就学する義務がある。
- 私立小学校、中学校は学校教育法により都道府県の認可を受けなければならない。
- 学齢児童の教育について各種学校の設置は認めない。
- 私立小学校、中学校は教科書、教科内容について学校教育法が適用される。
- 朝鮮語などの教育を課外で行うことは差支えない。
つまり学校教育法に従わない限り認可は得られない。そして認可を得ることは教育内容や朝鮮語使用などに対して規制を受けるということになります。
朝鮮人や朝鮮人団体はこれを事実上の閉鎖令であると捉えました。
1948年1月27日、在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)は第13次中央委員会を開催し、文部省通達に反対を表明します。また「3.1独立運動闘争記念日」に合わせて民族教育を守る闘争を「全国」で展開するよう訴えました。
通達を受け各都道府県では3月の初めから朝鮮人学校施設の明け渡しを要求するなど、朝鮮人学校閉鎖に動き出します。
3月31日、山口県では1万人以上の朝鮮同胞が県庁前で人民大会を開催し24時間徹夜闘争を展開、「学校の実情再調査」という事実上の命令取り消しを勝ち取ります。
同じころ、宮城県では朝連と県知事が会談し、朝鮮人の自主教育を確保しながら朝鮮学校の費用を全的に援助するという言明を得ています。
このように、問題が朝鮮人と地方自治体(警察含む)の間で展開されている間は、朝鮮人の闘争が大きな成果をあげていきました。
それが一気に逆転するのが4月24日です。
1948年4月24日、在日朝鮮人は兵庫県でもやはり知事から学校閉鎖令撤回の言明を得ます。
しかしその夜、米軍司令部は米軍神戸基地管内において占領後初めての「非常事態宣言」を発布し、警察を米軍憲兵司令官の指揮下に置きます。
兵庫県当局者に対しては、朝連、民青の本部、支部、分会の役員名簿と住所を調査し憲兵隊に報告すること、各警察署長は朝鮮人名簿を至急提出すること、県庁、市役所、検察庁に出入りした朝鮮人は理由不問で逮捕することを命じました。
「日本の法律に依るを要せず」とすることで、逮捕状なしの逮捕、拘束が可能となり、まさに「朝鮮人狩り」の様相を呈することとなります。
24日夜から29日までの間、約2000名の逮捕・検挙に至ります。
4月26日、大阪では府庁前で開催された人民大会に武装した警官が動員され、20発の拳銃発砲があり、金太一少年(16歳)が射殺されました。
1948年5月5日、西日本での非常事態宣言と東京での学校責任者逮捕という状況下で、事態の収拾のため朝鮮人教育対策委員会と文部省の間で覚書が交わされます。
覚書の内容は要旨、「朝鮮人教育は教育基本法と学校教育法に服従し、朝鮮人学校は私立学校として認可申請する」というものでした。教育基本法、学校教育法に服従する以上、朝鮮語による教育は課外でのみ可能であるということになりました。
学校の物理的閉鎖には至らなかったものの、法令遵守-教育基本法、学校教育法による認可という1.24通達の目的は貫徹されたと言えます。
「4.24」は教育弾圧だったのか
4.24(サイサ)と呼ばれる教育闘争の一連の過程を見てきましたが、米軍の直接介入や非常事態宣言の発布など、単純な朝鮮人学校弾圧と見るには常識的に無理があります。
先ほども申しましたが、この大規模な弾圧と闘争が繰り広げられた1948年は米占領期であります。
日本による朝鮮の植民地支配の連続性は現実に存在し、日本人や日本政府要人たちの妄言などもあり、日本政府-日本社会と残留朝鮮人の間の葛藤として語られる場合もありますが、見てきたように、事態の契機となる1.24通達はマッカーサーの指令により具体化されたものであります。米軍占領という制限の中で、日本政府がそのような政策を実行できるような状況ではありません。米軍による「同化教育政策」というのは論理的に蓋然性がないわけです。
にもかかわらず米占領軍は、約7年に及ぶ占領期において、たった一度の非常事態宣言という「伝家の宝刀」を、朝鮮人学校の弾圧のために抜いたわけです。
また事態は、やはり米軍の直接介入により苛烈化しています。朝連、民青の幹部たちを拘束するために4日間で約2000人逮捕するという暴虐ぶりですが、検問、道路封鎖、動員警察官への武器支給など、当時の地方警察の装備状況から考えても、おもいつきでできるようなことではありません。まさによく準備された「軍事作戦」だったと言わざるを得ないでしょう。
留置場では2000人に対してのある意味の「間引き」が行われますが、逮捕者に対する尋問は「南朝鮮での5.10単独選挙を支持するか?」であり、支持するとしたものは釈放されます。最後まで不支持を貫いた朝連、民青の核心活動家たちは、5月10日を留置場で迎えることとなります。
やはり信念を曲げることができなかった、当時朝連の兵庫県本部委員長であった朴柱範は拷問により事実上獄死しています。
ここまでくると何のことやらと思われる方もいらっしゃると思われますので、少し説明が必要でしょう。
この「軍事作戦」には最初から朝鮮建国促進青年同盟(以下、建青)が動員されています。[2]
作戦開始から無差別な逮捕劇が繰り広げられますが、朝連、民青の幹部たちを拘束することが重要であるため、建青員がその案内を務めるような形で警察に協力しています。
逮捕者に対する「尋問」も、警察ではなく建青が行っています。
建青員が「司法保護事業」の名のもとに「身元引受人」というかたちで警察に出向き、警察は彼らと逮捕者を「面会」させるとうやりかたです。
建青の幹部の中には、植民地解放前から協和会などで朝鮮人の独立運動や労働運動を監視し報告する役割を果たした経歴を持つ者もおり、解放後もその関係が維持されていたと思われます。解放前の「治安維持の協力」の連続性から、警察の治安事業である「司法保護事業」に民団・建青は深く関わっていました。
米軍が命令し警察が逮捕(実行)、所謂「右翼青年団体」が拷問、転向させる(この時の「転向」とは単独選挙不支持から支持)。同時期に南朝鮮地域で起こっていたことが、まったく同じ構図で日本でも起こっていたわけです。
朝連、民青の核心活動家たちが5月10日を留置場で迎えることで、米軍は熾烈極まりないことが予想されていた、関西地区での単独選挙反対運動を源泉封鎖することに成功したと言えます。
南朝鮮単独政府の「樹立」=植民地期対日協力者(親日派)による政権の樹立=分断体制の実現がアメリカにとってどれほど重要な利益であったかという脈絡の中で、4.24の常識を超えた弾圧にたいする納得のいく説明が可能となるのではないでしょうか。
4.24以後の展開と1949年朝鮮人学校閉鎖
事態は「5.5覚書」交換という形で収拾されることになりましたが、これは多くの朝鮮人にとって大きな挫折でした。
そんな中、教育内容の自主化については以降の課題とすることにして、もう一つの深刻な課題であった学校運営のための財政問題を、先行して解決しようという考えが生まれてきます。
私立学校の認可を得ることが学校事業継続の条件となっているわけですから、教育基本法、学校教育法にのっとった「学校」であることを出発点として考えるならば、合理的な発想であったかも知れません。
「5.5覚書」直後は、地方自治体の方も足並みがそろっていませんでした。認可の条件が整っていないことから閉鎖の方向で継続して圧力をかけるものもありましたが、後に認可条件を整えていくことを前提に私立学校として認可する自治体も現れています。
1949年4月6~8日、朝連は第7回朝連文教部長、学校長、教同責任者全体会議を開催し、①教育費一切の日本政府負担、②各級学校規定の統一様式の厳正実施、③教育施設の拡充、強化を呼びかけ、「我々は日本政府に対して教育費負担を要求する権利と歴史的条件がある」と結論付けました。[3]
そして1949年4月18日、朝連「4.24教育闘争1周年記念中央大会」にて朝鮮人学校教育費支給を要求、衆議院に対する請願を決議し、「朝鮮人学校教育費国庫負担の請願」と「朝鮮人教育問題等に関する請願」2通を衆議院に提出します。
それが、5月21日衆議院文部委員会で審議され、22日文部委員会理事会が採択、25日衆議院本会議で一括採択、31日に内閣に送付されることになります。
1949年5月24日「朝連中央時報」号外は「在日朝鮮人児童教育費は今後日本政府が負担することとなった」と報道、その直後から朝連は全国で教育予算を管轄する地方自治体に対し、その予算措置を要請していくことになります。
東京都北区議会では6月28日「東京朝鮮高等、中学生徒教育費に関する請願書」を賛成可決され、昭和24年度予算経費として、人件費1225万2千円、物件費2045万1850円、総額3270万3850円を東京朝連学校管理組合に支払うことしました。[4]
同時期ですが、6月16日兵庫県知事岸田幸雄は「朝連中央時報」号外の記事内容を文部省に照会します。
これについて文部省管理局長久保田藤麿は、6月28日付で「朝鮮人教育費の日本政府負担について」(地管25号)という通達を兵庫県に送付、翌日各都道府県知事と教育委員会、教育長あてに通達を出しました。
内容は以下のようなものです。
別紙要旨のような請願が去る五月二十五日衆議院本会議において採択され、内閣に送付されたことは事実であるが、文部省としては此の点に関し左の如き見解を持っている。
一、朝鮮人の学齢児童生徒が公立の小学、中学、盲学校またはろう学校に就学する場合には内地人学令児童、生徒がこれらの公立学校に就学しているので現在何ら差別されていない。
二、学校教育法によって認可された朝鮮人私立学校に対しても内地の一般私立学校と同様に取扱う。内地人の一般私立学校に対して補助金が交附されていない現在朝鮮人に対してだけ補助金を交附することはできない。
国権の最高機関である国会が決定したことを、行政府の一官僚が否定するというようなことが起きてもいるわけです。
そのような中、1949年9月、日本政府は朝連、民青に対して団体等規正令を適用し、解散に追い込みます。
それを契機に、10月12日吉田内閣は「朝鮮人学校の措置方針」を閣議決定しました。
措置方針は要旨以下のようなものです。
1. 朝鮮人子弟の義務教育は、これを公立学校において行うことを原則とすること。
2. 義務教育以外の教育を行う朝鮮人学校については、厳重に日本の教育法令その他の法令に従わせ、無認可学校は、これを認めないこと。
3. 朝鮮人の設置する学校の経営等は自らの負担によって行われるべきであり、国又は地方公共団体の援助は、一の原則から当然その必要がないこと。
結果10月19日の第1次閉鎖措置で90校7254名が、 11月4日第2次閉鎖措置で277校33339名が学校を奪われることとなります。[5]
これは「5.5覚書」交換、立法府の決定、自治団体の決定などの脈絡と事実を完全に無視した行政権の乱用、行政府の違法行為だったと言っていいのではないでしょうか。
「逆コース」の可視化と朝鮮人政策転換
いったい何が起こっていたのでしょう。
「5.5覚書」までの「占領政策の脅威」についての認識は朝鮮人の日本の法令遵守に関するものでありました。私立学校の認可を受けることで事態を収拾することができた理由です。
しかし朝鮮半島分断体制実現=東アジア冷戦体制の確立後、米国の日本占領政策は「逆コース」を歩んでいくことが可視化されます。
CIEは、1949年1月28日から2月10日まで、CIE教育課の連絡調査係地方連絡体官フォークナー(Theodore A. Faulkner)を派遣し、山口県の朝連小学校を調査、”Korean Problem in Yamaguchi Prefecture”(「山口県における朝鮮人問題」)という文書を作成しました。[6]
フォークナーは学校の至るところに「北朝鮮旗」が掲げられていることを指摘し、学校の目的が(1)日本を憎む態度を育てること、(2)合法的に作られた権力や民主的な政府に逆らう態度を育てること、(3)政治的共産主義に調和・受容できる態度を育てること、(4)子どもたちには狂信的に北朝鮮政府に愛国的になるように、そして北朝鮮旗に向かって唯一の忠誠を誓うことを教えること、(5)合法的に設立された韓国政府がアメリカの厳格な軍事支配の下にある傀儡政権だと教えることであると報告しています。
そして、a. 山口県にある26校の朝連小学校をできるだけ早く閉鎖し、2,223名の朝鮮人児童は日本の公立学校に転入すること、b. 山口県の朝連教育者や朝連幹部は、日本の法律や占領軍の指示に対する多数の違反のために告発され審議されること、さらに彼らを強制送還処分にすること、c. 文部大臣と朝鮮人教育対策委員会の間で調印された覚書は無効とし、大韓民国外交部から覚書〔5.5 覚書〕に替わる政策文書を発行すること、d. 好戦的愛国主義かつ共産主義的な書籍は日本中の朝連小学校から取り除かれ、県当局によってできるだけ早く調査されること、f. 朝連事務所を日本中の朝鮮人学校から取り除くことと、勧告しました。
「占領政策の脅威」としての朝鮮人に対する認識は、「法令不服従」から「東アジア冷戦体制=分断体制に対する抵抗」へと変化していきます。朝鮮学校は後者の脅威とみなされることになったわけです。
必然的ではありますが、日本の為政者や勢力の中からもこのような流れに伴い、在日朝鮮人政策の目的転換がはかられています。
「田中意見書」は1949年2月から3月に当時山口県知事であった田中龍夫を作成者とする“The Korean Problems and the Counter Measures”という英文 39ページに達する長文の意見書です。GⅡに提出され、米第1軍団でも回覧されました。
田中龍夫という人物について少し触れておきましょう。
以下は1996年に山口県史編纂の際行われたインタビューの一部です。[7]
「県庁の連中というのは、みんな勇躍して朝鮮人学校の閉鎖に行ったもんですよね。(中略)山口県じゃあね、県の部長だろうが課長だろうが、朝鮮語ぺらぺらだからね。この間まで朝鮮総督府に勤務していた者が、部長なり何なりしているわけだから」
「朝鮮総督府、台湾総督府にはねえ…。こと朝鮮総督府については、小学校も朝鮮だし、中学校も、大学も京城の大学だし、就職も朝鮮総督府だというような、あれですよね、橋本とか何とかは、みんなそんな連中だもんね、その連中がみんな首になっちゃったんですよ。だから総督府にゃあ、優秀な人がおるんですよ。今言った山崎君なんてのは、ほんとに朝鮮人より朝鮮語がうまいんだから。そいで、中波と短波とをね、知事室にね、ラジオで傍受してね。それで、それを『朝鮮情報』という、総理大臣と外務大臣、法務大臣、まあ、10くらい作って、そいつをいつも内閣に出しておったんだね。」
田中は朝鮮総督府官吏の日本国内任用を積極的に進めています。
表1 警察部門:植民地・占領地官吏の任用状況(山口県)[8]
| 統治機構 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 計 |
| 朝鮮 | 8名 | 78名 | 35名 | 4名 | 125名 |
| 台湾 | 18名 | 8名 | 26名 | ||
| 「満州国」 | 10名 | 7名 | 17名 | ||
| 南洋 | 1名 | 2名 | 3名 | ||
| 中国 | 1名 | 1名 | |||
| 外務省警察 | 9名 | 4名 | 13名 | ||
| 関東軍 | 4名 | 4名 | |||
| 計 | 8名 | 116名 | 61名 | 4名 | 189名 |
表2 教員部門:植民地・占領地官吏の任用状況(山口県)[9]
| 統治機構 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 計 |
| 朝鮮 | 8名 | 325名 | 199名 | 8名 | 540名 |
| 台湾 | 74名 | 123名 | 197名 | ||
| 「満州国」 | 14名 | 93名 | 8名 | 115名 | |
| 南洋 | 3名 | 3名 | 6名 | ||
| 中国 | 21名 | 15名 | 36名 | ||
| 関東州 | 1名 | 5名 | 1名 | 7名 | |
| 出身不詳 | 4名 | 2名 | 4名 | ||
| 計 | 8名 | 438名 | 438名 | 19名 | 903名 |
「田中意見書」の内容を検討してみましょう。[10]
序文「日本は戦争によって、33%の領土と境界を奪われた。アムール川は現在国境線ではなくなり、わずか9時間で交差する朝鮮海峡が現在の国境線である。終戦後、山口県は名実ともに日本の国境の最前線となり、数年前と根本的に異なる。県は国防の最前線として、昼夜を問わず朝鮮人と共産主義者たちと戦っている。」
敗戦からわずか3年しか経っておらず、連合国による戦争責任の追及が行われているさなかに、日本で連合国を代表する米軍に、「領土と境界を奪われた」という歴史観、先の戦争に関する評価を、日本の為政者が米軍を相手に平然と披瀝できてしまうことについて、皆さんはどう思われるでしょうか。
続けて見てみましょう。
「日清戦争と日露戦争は日本の自国防衛のために戦われた。日韓併合を通じて初めて領土の保全を確立したことは注目に値する。それゆえに親米政府が南朝鮮で樹立されたことは日本にとって重大な意味を持つ。
(中略)
我々は常に大陸と朝鮮における朝鮮人と共産主義者らの政策を考慮しなければ、政治的、社会的、思想的に、県の政策において、重大な間違いを犯すだろう。これらの事実にもかかわらず、山口県に対する政府の認識は戦前と変わらず、政府は根本的変化に気づいていない。これは国策の誤りであると私は確信する。
(中略)
団体の争いで特に留意すべき点は、朝連の力が遙かに強く、中国と朝鮮の共産主義者の援助により彼らの動きが現在革命的要素を持つ点である。〔中略〕例えば、神戸大阪地区での学校閉鎖反対デモは群衆の心理を暴動や革命に向かわせた。〔中略〕我々は、現在の日本で、朝鮮の如き状況が同じ形と規模で発生するものと判断しない。しかし我々は既に大陸における中国人・朝鮮人共産主義者が朝鮮を助け、日本の共産主義者と直接協力している事実に注意を払うべきであり、全国規模で協力関係は進み、革命へと向かっている。
(中略)
南朝鮮は米陸軍によって占領され、米国の友邦国家によって承認されたが、親日高官が法律によって処罰され、政治亡命者となった。我々はいかに問題を扱うべきだろうか。
(中略)
これを機に、共産党は反政府扇動と収賄をしている。南北人民は三八度線で分けられていることへの共通の感覚を持っているだろうか?
(中略)
しばしば東洋のバルカンと言われる朝鮮は、将来に平和な日がくるだろうか?朝鮮での動揺が、直接日本に影響を与え、日本で共産主義者を成長させる機会を与える。我々は日本の第一の防衛線が朝鮮であることを忘れてはならない。
南朝鮮が「赤」く染まるとき、山口県は困難な立場に立つだろう。山口県は共産主義者の経路としての重要性ゆえ、日本の直接的な防衛を担う。政府が県のすべての特徴を、完全に認識されることを望む。」
「田中意見書」での一貫した朝鮮認識は、朝鮮の状況が日本の国防と治安を左右する重大事であるということ。よって朝鮮問題は日本にとって安全保障に関する問題であるということであります。
そういう意味で戦後の新しい状況は、それでも38度線以南に親米国家が樹立されたため日本防衛の第一線が38度線にとどまることができたが、日本が統治していた時と比べ大変不安定であるというのです。
4.24の弾圧は米国主導で行われ、米国はそれにより 「単独選挙反対運動」を封鎖しました。
田中は、朝鮮に親米政権=大韓民国が樹立されるかどうかが日本の国防を左右する重大事であるにもかかわらず、4.24当時は日本国内において朝鮮問題、朝鮮人問題にたいする《生ぬるい態度》が残っていたという認識を持っています。
それが「5.5覚書」以後、立法府や地方自治体を相手に教育費獲得闘争が成果をあげた背景だったということでしょうか。
田中意見書は朝鮮問題を防衛問題、安全保障問題という日本の第一の国益に属する問題であることを印象づけることで、親日親米派による南朝鮮支配の維持=分断体制の維持が米国の利益を補完し代行する性格の問題ではなく、日本が自国の利益のため独自に追及し介入しなければならない問題であることを主張したと言えるでしょう。
朝鮮人問題が安保問題となるならば、朝鮮人団体は団体等規正令の対象に、在日朝鮮人は改正外国人登録法により厳格に管理、犯罪人扱いすることが可能となるわけです。
1948年東アジア冷戦体制確立後から、朝鮮学校はその論理的、政策的帰結である対朝鮮敵視政策の延長線上に位置づけられ、その論理で「弾圧」されました。
講和条約発効後も、日本は米国の冷戦体制の中に組み込まれそれに追従することによって、やはり対朝鮮敵視政策として朝鮮学校を「弾圧」し続けました。
差別側の朝鮮学校問題の「政治問題化」は「拉致、ミサイル」から始まったわけではないのであります。
結びにかえて
人権とはその条件が「人である」ことのみの特別な権利であります。
朝鮮との関係や総連組織との関係の在り方が民族教育の「条件」となるような状況は「人権論」としての相貌を保っていません。
朝鮮学校の学生全員が熱烈な朝鮮民主主義人民共和国支持者であったとしても、その権利が保障される場合のみ、民族教育の権利が「人権」であるという相貌を保つことができます。
同時に、「弾圧の側」が歴史的に朝鮮学校問題を人権問題として扱っていないのも事実であります。
朝鮮学校問題の「解決」を中心問題として設定するならば、日本社会での人権の伸長と同時に、朝・日関係の改善、正常化を避けて通ることはできないのではないでしょうか。
朝・日関係の正常化は、20世紀の忌々しい冷戦体制の一角を完全に切り崩す大きな意義を有しています。
あきらめず二兎を追い、民族教育の権利が確立されることを切に望みます。
[1] 「朝鮮人設立学校の取扱いについて」文部省学校教育局長、官学五号、1948年1月24日付
[2] 鄭栄桓「朝鮮独立の隘路」(法政大学出版局、2023年)、211頁に詳しい[3] 鄭祐宗2013「解放後在日朝鮮人の政治社会史」、185頁より抜粋
[4] 前掲190頁より抜粋
[5] 前掲脚注490より引用(金徳龍「朝鮮学校の戦後史 1945 1972[増補改訂版]」社会評論社、2004年、264-272頁巻末資料参照したもの)
[6] マキー(藤原), 智子2014「在日朝鮮人教育の歴史 : 戦後日本の外国人政策と公教育」、43頁
[7] 鄭祐宗2013「解放後在日朝鮮人の政治社会史」、37-40頁より抜粋
[8] 前掲44頁、表3引用
[9] 前掲44頁、表5引用
[10] 前掲83-86頁より抜粋



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